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ロングセラー物語 第4話:株式会社 浅田飴

「良薬にして口に甘し」明治より今に伝わる名コピー

  • 明治の名コピーライター
    「良薬にして口に甘し」。今でも使われている浅田飴のキャッチコピーは、「御薬さらし水飴」(現浅田飴)の製造・販売を始めた堀内伊三郎の息子、初代伊太郎によって明治時代考案された。伊太郎はそれ以外に「せきたんに浅田飴、すきはらにめし」など秀逸なフレーズを誕生させた。これを「引き札」とよばれる浮世絵の印刷技術を用いた、今でいうチラシに載せ配布。当時人気だった歌舞伎役者を図柄に起用し、鮮やかなカラーでぜいたくに作られた引き札は評判であった。

    漢方医学の最後の大家による処方
    浅田飴のルーツは、漢方医学の最後の大家といわれた浅田宗伯による。宗伯の家は信濃国(長野県)で代々医業を営んでいた。宗伯は慶応2年より徳川幕府の医官を務め、明治維新以降は嘉仁親王(後の大正天皇)の侍医となった人物。伊三郎はそこで書生をしており、同郷のよしみで「御薬さらし水飴」の処方を譲り受けた(明治20年)。しかし、思ったようには売れない。困り果てた伊三郎は、当時学生であった息子の伊太郎に販売を委ねることに。商品のネーミングが固いのではと考えた伊太郎は、宗伯の名前をとって、「浅田飴」と改称。先に挙げた他に類を見ない広告展開と相まって、明治26年一気に売り上げを伸ばした。

    試行錯誤をかさね完成した固形浅田飴
    さて、今ではさまざまな製品群を持つ浅田飴であるが、発売当初は水飴タイプのみであった。そこで、携帯に便利な固形タイプを作りたいと考えた伊太郎は、もち米や寒天などを用いゼリー状に固めたサイコロ型の商品を開発した。大正4年のことである。ところが、当時のものは夏場になると溶けてしまったため、商品改良に向けて試行錯誤を重ねた。その間に関東大震災に見舞われるという苦難を乗り越え、大正15年現在と同じ形状の「固形浅田飴」がついに完成したのである。

    明治から平成に長寿の「のどの薬」。現代人に浅田飴
    第二次世界大戦の空襲、戦後の原料入手困難の時期を乗り越え、昭和21年に再開、37年にメントール入りの「固形浅田飴クール」を発売。同時に従来品を「固形浅田飴ニッキ」とネーミング変更。テレビCM等で初代からの受け継いだ良い伝統薬を普及し、日本人ののどの健康を守っている。さらに61年に柑橘系の味の「固形浅田飴パッション」を発売。平成15年には、シュガーレス化した「固形浅田飴クールS・ニッキS・パッションS」の3アイテムに変更。明治の良薬を現代にマッチするべく、日々改良改善を進めています。


  • 固形の浅田飴が発売された頃の紙で作られた容器。その後、保存性などを検討し現在の様な缶製品となる


    浅田飴の宣伝を目的として作成された「金看板」。当時の薬店や卸に飾られていた

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