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「ありのまま自立大賞」受賞 早瀨 久美さんインタビュー

早瀨 久美さん 薬剤師・デフリンピックメダリスト

早瀨 久美さん 薬剤師・デフリンピックメダリスト

1998年明治薬科大学薬学部卒業、その後大正製薬に入社。2001年、薬剤師法改正により日本で初めて聴覚障がい者として薬剤師免許を取得した。その後、調剤薬局での勤務を経て現在は昭和大学病院薬剤部にて勤務。2010年頃から自転車競技にチャレンジし、デフリンピック3大会連続メダル獲得している。

先天性ろう。2001年の薬剤師法改正までは欠格事由の為、たとえ国家試験を合格しても薬剤師免許の登録はできませんでした。
しかしながら薬剤師を志し国家試験を受験し合格、その後諦めずに多くの仲間たちとともに署名を集め、2001年に薬剤師免許を取得。
第23回「ありのまま自立大賞」を受賞された早瀨久美さんにお話しをお伺いしました。

周りに支えられたからこそ薬剤師をめざした

―まずは「ありのまま自立大賞」受賞おめでとうございます。受賞された際のお気持ちをお聞かせください。

歴史ある賞をいただき大変光栄に感じるとともに身が引き締まる思いがしました。


今後も「自分ができること、自分にしかできないことは何か」を考えていきながら、周りへの感謝の気持ちを持って薬剤師として全身精霊取り組んでいきたいと改めて感じました。

 

―薬剤師を目指したきっかけをお教えください。

私は生まれた時から耳が聞こえません。生まれた時は特に考えてはいなかったのですが、学年で言うと小学校の高学年ぐらいの辺りから段々と“みんなと違う”と感じ始めました。そうなったときに、まずは“自分を知る”ということ。“「自分がどういうふうに扱ってほしいのか」を自分自身が知る”ということを考えました。

 

そうすると、どうしても無理なことは、“周りの状況が分からない、聞こえない”ということです。なので、周りに自分のことを伝えていき「聞こえないから、こういう時はちゃんと教えてほしい」とか、聴者の子供たちが通う学校に一緒に通っていたため授業中、先生が言っていることが分からないような時は先生のところに行って聞くとか、自分の中でできる方法を考え行動していました。


それでもどうしても難しい時はあるので、周りの人のサポートが必要になります。
そんな中で少しずつ、自分が支えられてサポートをしてもらうばかりではなく、何か人の役に立つ、そういった仕事がしたいと思うようになりました。


そんな時、身近にいた母が薬剤師でした。母と同じように薬を使って、人の人生、生活などを助けたいと思うようになりました。

 

―それはだいたい何歳くらいのときですか?

中学校の2年生ぐらいのときですね。
それまで考えていたのは可愛い夢みたいなもので、お花屋さんになりたいとかアイドルになりたいとか(笑)


でも現実的に今後の進路を考え始めた際、資格を取って安定した仕事につきたいと考え、母のようになりたいと思いました。

 

「いけるところまでいく」という考え

―その当時はまだ法律上薬剤師の登録はできなかったと思うのですが、知った上で目指されたのでしょうか?

はい。それは私も分かっていました。
でも分かった上で母も言っていたのが「法律というのは人が作ったものだから、将来的には変えることができる。」ということです。

確かにルールってそんなものといえばそんなものですよね。

人が作ったものなのであとから付け加えたり、変更したりすることは可能性として0%ではありません。もしかしたら私が高校生、もしくは大学生の頃には変わるかもしれないと母の言葉に背中を押され目指しました。

 

―そこから薬学部に進学されて専門的な授業が多かったと思います。苦労はありませんでしたか?

進学してからというより薬学部に入る前、受け入れてくれる大学、薬剤師になる道をサポートしてくれる大学を探すところが苦労しました。


先ほどお伝えしたように当時はまだ法律上聴覚障がい者は薬剤師になれない。国家試験を受験し、合格するまでは可能だけれども、薬剤師免許の登録ができない時代でした。なので入学自体を受け入れてもらえない大学が多くありました。


そんな中、授業中のサポートなども快く受け入れてくださったのが明治薬科大学でした。
授業中、先生が話している内容を文字に書き起こすノートテイクをしてくれる方や、その方への報酬も大学側が全て用意してくださり、私自身はきちんと勉強するだけという環境を整えてくださいました。もしそれがなければ同級生と同じスタートラインに立てず、私だけ遅れてしまい苦労していたと思います。

 

―「法律は変わるかもしれない」という気持ちのもと進学されたとのことですがやはり中々難しいことですよね。大学の卒業が近づくにつれ焦ったり、ネガティブになったりしませんでしたか?

そうですね。ただ予想はしていました。

とりあえず「いけるところまではいこう。国家試験に受かるというところまではとにかく行こう。」という気持ちだったので焦ることはありませんでした。ただ卒業後の選択肢は限られてしまいましたね。免許がないと病院や薬局で働くことはできないので……。

 

そんな中でも薬に関わる仕事はしたかったので当時内定をいただいた大正製薬に入社しました。そこで勤務しながら「まだ変わらないかな? もう無理かな?」というようなモヤモヤした気持ちにはなりましたね。

今考えると同級生はもう免許をとって薬剤師として働いているということが大きかったのだと思います。

 

でも今の厚生労働省(当時は厚生省)の方から法改正に関する進捗状況は度々耳にする機会があったので、“法律が変わることに対する期待”がなくなることはありませんでした。

 

―卒業後、製薬会社ではどのような業務をされていたのですか?

「市販直後調査」をしている部署に配属されました。「市販直後調査」は新薬が発売された後、1~2年間ほど服用後の副作用や服用された方の状況などの調査になります。なので新薬の勉強は必須で“薬に関わる仕事をしたい”という希望は叶っていました。

 

またMRの方たちへの情報提供などもあったのでMRの方々の苦労なども知ることができ、メーカーならではの状況を知ることができたのは今思うと後々病院に勤務するにあたって大きなことでしたね。

 

―その後、薬剤師法が改正され免許の取得がきっかけで転職を?

少し細かくお話をすると、薬剤師法が改正される少し前に製薬会社から日本薬剤師会に出向という形でメールでの問い合わせに回答する仕事をしていました。

 

日本薬剤師会は全国のメーカーが作っている医薬品の情報を取りまとめている場所のため、医薬品に関する問い合わせが多く、やりがいを感じていました。その時に法改正が行われ薬剤師免許を取ることができました。

そこから製薬会社に戻って2年くらい勤めたのですが、そろそろ医療現場を見てみたいと思い転職しました。

 

―転職先はすぐみつかりましたか?

今の勤務先である昭和大学病院はドクターに声をかけていただきました。というのも元々全日本ろうあ連盟の活動の中で、医療用語を手話に変え、本を出すというプロジェクトがありました。そこで一緒だったのがその方だったんです。

 

実はその頃はすでにメーカーを退社し、希望だった調剤薬局で薬剤師として働いていたのですが、その時に昭和大学病院で、聴覚障がい者のための外来を開設することになったそうです。

そこで「やはり聞こえない当事者が必要だと思う」ということでお誘いいただきお受けしました。

 

スポーツとの出会い

―夢であった薬剤師免許を取得されて、お仕事も充実されていたと思うのですが、デフリンピックへの挑戦はいつ頃から考え始めたのですか?

これもやはり薬剤師になったおかげですね。

というのが薬剤師になった後、聞こえないアスリートの方から「この薬使っても大丈夫?」という質問を受けることがありました。

その時私は「使っても大丈夫ってどういうこと?病気なら飲めばいいんじゃないの?」と思いましたが、その質問の意図が気になり調べるとドーピングに関することだと分かりました。


今だったら当たり前の話だと思うのですが、当時20年くらい前は日本でもまだあまり認識がなく「薬ってスポーツにも繋がるんだな」ということをその時知りました。

 

そこから徐々に日本でもドーピングの認識が広まり2009年にスポーツファーマシスト認定制度が始まったので私も取得しました。

そこで2009年デフリンピック台北大会の際の薬の用意を私が担当するのですが、せっかくだから現場を見たいと思い、現地に応援に行くことになりました。

 

そこでまず一緒に行っていた主人が感化され、自転車競技をはじめました。初めは練習や大会にサポートのために一緒に行っていたのですが、その様子を見ているうちに自分でもしたいなという気持ちになり、私もスタート。

 

練習を重ねるうちにデフリンピックへの出場に繋がりました。

ご主人の早瀨憲太郎さんと

 

やりたいと思う自分の直感を信じる

―2022年のブラジルでも3大会連続メダル獲得されていますが次の2025年も狙いますか?

そうですね。2025年が東京で、日本での開催です。あと、ちょうど私自身50歳を迎える年になるのですが、だからこそ挑戦したいと思っています。


というのも私の友人で杉浦佳子さんという方がいます。彼女も薬剤師で昔から自転車競技をしていた仲間なのですが、2016年のレース大会中に事故にあわれて障がいが残ってしまいました。その時にもう競技ができないと落ち込まれていたのですが、元々すごく強い選手だったのでパラリンピックを勧めました。

 

そこから彼女も色々調べ、練習され、出場。2021年の東京2020パラリンピックでは金メダルを取りました。その時の彼女が50歳でした。


なので私も彼女のように50歳でも目指そうと思っています。まあ金メダルとは言えないですけどね(笑)

東京2020パラリンピック競技大会金メダルを獲得した杉浦佳子選手と

 

―最後にこれから何かに挑戦しようとしている方にむけて一言いただけますか?

もう直感的にこれをやりたいと思ったらどんどん挑戦していってほしいです。


やらなければそれがよかったかどうかも分からないですよね。挑戦して失敗しても合わなかったということが分かるし、続いたらそこでも色々発見があります。それらすべて含めて自分の直感を信じて色々やってみてほしいと思います。

失敗は畏れても良いと思います。だからこそしっかり準備が必要です。


「失敗は畏れて挑戦は迷わず」私もまだまだ挑戦しつづけたいと思います。